千里の道も一歩から

日々徒然。

餃子とライオンと、少しだけ昔のこと

夕飯に餃子を焼いていたら、3月のライオンの11巻の餃子パーティーのシーンが脳裏に浮かび上がってきて、涙がこみあげてきた。

11巻のあとがきがなんだかとても感慨深くて、3月のライオンを昨日から読み返している。
何度も読み返しているから、なんとなく頭に話は入っているけれど。
たぶんはじめて、3巻を読みながらぼろ泣きした。号泣だった。桐山君が大量の魚を川本家に持って帰って、モモちゃんと話しているあたりから、なんかもうダメだった。
島田さんと対局している桐山君が、これまでになく自分の中に響いて、苦しくて、逃げ出したくて、このまま泣きながら、どこへ行けるかわからなくて、でも。
それでも、ページをめくる手を止められなかった。

3月のライオンを初めて読んだのは、たぶん今から5年前。5巻が発売された頃くらいだっただろうか。
あの頃何度も読んでいたのは、主に1巻と2巻だった。しんどい時にくり返し読んで、眺めて、あかりさんとひなちゃんのご飯に癒やされながら、桐山君のがんばりに励まされながら、なんか気づいたらここまできていた。

あの頃から、私は何かが少しは変わっただろうか。
変わったのだろうと思う。少なくとも、同じ漫画を読んで、自分の中に響くシーンが変わった。泣きたくなるところがかわった。励まされるところが、心に残る言葉が、変わったから。


今日はよくねむれそうだ。おやすみなさい、よい夢を。
そして、明日もいい一日になりますように。

家を片づける――vol.2書類を捨ててみた

くしゃみと鼻水が止まらない日が続いている。
急に肌寒くなってきたから、風邪でも引いたのだろうか。すっかり秋だ。

先週末、なんとなく思い立って溜まっていた昔の書類を処分した。まだ三分の一くらいは残っているのだが、だいぶ少なくなった。
サークルの議事録、授業のプリント、コンサートで使った楽譜、企画書etc.
出るわ出るわ。捨てるために中身を確認したりホッチキスを外したりするわけだが、見てると懐かしくなってくる。
主に3年前のやつが多かったけれど、よく残ってたなぁと思う。
ただ、その頃のものがいまだに残ってるくらい、あの頃の自分は手一杯だったんだろうなぁとも感じる。
あの頃の自分が、どうやって生活していたのか、あんまりよく覚えていない。物理的に、どういう時間の使い方をしていたんだろうと感じる。
あの書類たちは、今までずっと手をつけられなかった。片付けなければいけないことはわかっていたけれど、どうしてもやりたくなかった。
面倒くさいというのもあるけれど、それ以上に、当時の自分に向き合うことが嫌だったのかもしれない、と今は思う。
だって、どうしようもなく、情けない。

あの頃私は、「誰か」に認めてほしくてしかたなかった。自分で自分のことなんてどうやっても認められなくて、むしろ大嫌いで、だからこそ、他人に求めた。好かれたくて、あいされたくて、でも本当に自分を好きだという人のことは信じられなかった。
自分自身でさえ、自分が重くてしかたなかった。
誰より好かれたいくせに、あいされることに怯えていた。怖くて仕方なかった。どこまでも。どうしようもなく。
誰とも向き合うことができなくて。過去に逃げた。
何度も繰り返す地獄の中で、次第に生きていくことさえ面倒になった。どうして死んじゃいけないのかわからなかった。
自分の中にある虚しさに、向き合いたくなくて。逃げ続けた。だって怖い。


救われたいくせに、本当は救われたくなんかない。矛盾した感覚に板挟みだった。
本当に、どうしようもなかった。


そこから出る鍵を持っていたのは、他でもなく、自分自身だった。自分が持っていた。


あの頃、「わかる」と返事したけれど、本当は何一つ、わかっちゃいなかった。
わかっちゃいなかったことさえ、わかっていなかったから。

いまだって、本当は怪しいものだ。
あの頃より、少しは成長しただろうか。


そうして今、残っていた書類を捨ててみて、気づいたことがある。

なんか、なんというか、家の中が『静か』なのだ。無音の音が減った感じ、とでも言えるのだろうか。
モノが発していた音が、少なくなったように感じる。


もっと、モノが減ったら、少なくなったら、あの部屋は、さらに静かになるのだろうか。
家にいて落ち着けるようになるのだろうか。


広げてみよう、自分のなかにある穴を。
広げて、掘り下げて、中に潜ろう。
思い切って、飛び込んでみよう。
何が出てくるかわかんないけど。

家を片づける vol.1――『理想の暮らし』がわからない

最近、家にモノが増えている。特に書籍。

もともと、我が家にモノは多かった。が、この頃さすがにまずい、と思っている。なにせ掃除が異様に面倒なのだ。いい加減にどうにかしたい。

 

以前、近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』という本を読んで片づけに挑戦してみたことがある。

結果、途中で見事に挫折してしまった。(少なくとも、半年以内に片づけを終わらせることはできなかった。)

 

途中で挫折した原因は、自分の中でなんとなく分かっている範囲では、主に2つある。

①理想の暮らしが、うまくイメージできない。

②“ときめく”感覚が、モノにもよるが理解できない。

 

私は、まずこの一番最初の『理想の暮らしをイメージする』でものの見事につまずいた。

『理想の暮らしは?』と言われても、『そんなものは考えたことがない』というのが本音だった。そもそも、暮らしには理想がある、という発想がなかった。

シャーペン片手にノートの前に陣取って考えてもさっぱり思いつかなかったため、インテリアの雑誌を買った。端からぱらぱら眺めても、いまいちしっくりくるような写真や部屋の内装は見当たらなかった。

理想の暮らしなので、時間の使い方という点でも考えてみたが、その当時、考えれば考えるほど、「それは私が本当にやりたいことなんだろうか」という問いにぶつかり、途中で考えたくなくなってしまった。

 

この、「今やろうとしていることは、本当に私がやりたいことなんだろうか」という問いは、別のところでもぶつかっていた。「やってみたい」と思ったことが、「これが自分が本当にやりたいこと」だという確信のようなものがない、という感覚だろうか。

この「やってみたいこと」はこれまでやったことがないことだったりするため、「本当にやりたい」のかどうかが判断しようがない、という側面もある。

そして考えるほどに、「むしろ何もしたくない」という感覚が湧き上がってくることさえある。

この当時、そして現在でもそうだが、自分の暮らしについて考えることは、半分現実逃避であり、半分現実に向き合う行為であった。だから、これは私にとってなかなかしんどいことでもあった。「空っぽ」で、そして弱さや痛みを抱えた自分そのものと向き合うことに等しいから。

結果、考えることに辟易した私は、理想の暮らしをイメージできないまま、とりあえず片づけはじめてしまった。

 

衣類は、ほんとうになんとくなく“ときめく”“ときめかない”で分けて捨てた。

そして、次の書籍が難関だった。書籍に“ときめく”感覚を、何で判断すればいいのかわからなかったのだ。

本の中身なのか、装丁なのか、それとも値段か。小説と漫画が多いけれど、“おもしろい”にも種類がある。単行本はともかく、シリーズものの漫画などは本当にお手上げだった。

そのときは、かろうじて「もう手元に置いておかなくていいかなぁ」と思ったものを“ときめかない”と判断して、それだけ売ったり捨てたりした。

 

そして現在、我が家の蔵書はちゃくちゃくと増えている。

どうしたものかと思っている。

 

長くなりそうなので、次回にまわそうと思う。

 

『ふるさとのねこ』岩合光昭写真展を見に行って

岩合光昭写真展『ふるさとのねこ』を見に行ってきた。

津軽地方の、あるリンゴ農家で生きているねこ達の物語。
春、夏、秋、冬といった四季を通じて、母ネコと、その子ネコ達の暮らしを撮影している。
この写真展は、私がこれまで写真というものに対して持っていたイメージ、考え方に小さくない衝撃を与えた。
いい機会なので、自分と写真との関係性について考えてみようと思う。



○私にとって写真とは?―――『記録』?それとも『芸術』?

写真を撮ることが好きか嫌いかと聞かれたら、おそらく好きだと答える。
自分で撮る場合、一眼レフのような高価なカメラは持っていないため、コンデジスマホを使う。撮影対象は、夕焼けだったり、植物だったり、食べ物だったり、その時々でさまざまだ。それらは、その時自分が『きれい』『かわいい』『美味しそう』といったことを感じて、残しておきたくて撮影する。後で、見返せるようにと。
植物の場合は、自分の勉強のために記録として撮っていることが多い。

だが、こうやって撮った写真は、大概の場合見返さないことが多い。見返すのは、せいぜいSNSにおけるアイコンの画像を変えるとか、スマホやパソコンの待ち受け画面を変える時くらいである。
では見返したとき、撮ったときと同じだけの感動、感情の揺らぎを感じられるかといったら、そんなことはないのだ。
思い出せるのはせいぜい、『そういえばあそこ行ったな』とか、『こんなことあったな』ぐらいのものなのだ。自分が撮影した写真の中で、その当時を、今まさに起きていることのように感じられる写真は、おそらくない。
(その写真を見て鮮烈に当時を思い出せるものは、その当時があまりにも強烈に自分自身に焼き付いているからだと思う。)


写真に関する技術や経験がど素人であるということも当然ながらあるが、私は、自分で撮る写真に対して『思い出や経験を記録』できればいい、と考えていた。それ以上の役割を、『芸術』としての側面を写真に対して求めていなかった。

だからかわからないが、私はきれいな風景や食べ物などの写真や写真集を、買って手元に置きたいとはあまり思わない。書店でたまにぱらぱら眺めて、『あーきれいだなー』と思って、それでわりと満足してしまう。

長くなったが、つまるところ私はこれまで写真を見て感動したことはなかった。
写真というものは私にとって、そこそこ身近なものであるが、同時に私にそこまでの影響を与えるものではなかったのだ。


○はじめて感じた「写真」に対する感動

この写真展で展示されていた写真は、そんな私の写真に対するイメージを揺らがした。

大げさかもしれないが、私ははじめて「生きている」写真に出会ったと思った。

写っているねこ達が、今にも動き出しそうなのだ。やわらかそうな毛並みのもふもふした感じ、あるいは、少しごわごわしていてもなめらかな毛並み、ぷにぷにした肉球。今にも動き出しそうな尻尾に後ろ足。
手を伸ばせばそこにいて、触れるかのように、手触りが、肉体の温かさが感じられる。
「動いている」写真だった。「生きている」写真だった。はかなく、やわらかく、しなやかな命がそこにあった。
今まで写真というものは、「止まっている」ものというイメージだった。ファインダーの向こう側に、確かにそこで生きている存在がいることを、はじめて感じることができたように思う。
失礼極まりないことではあるが、私は写真というものを侮っていたのだと気づかされた。


○対象と向き合うために―――自分自身と向き合う

私が今回の写真展で一番感じたことは、『どうしたら、あんな風に命と向き合えるのだろう?』ということだった。

話は逸れるが、私は文章には多かれ少なかれその人自身が現れる(滲み出ると言った方が近いかもしれない)、と思っている。
そこで、自分の言葉で文章を書こうとすれば、否応なしに自分自身と向き合うことになる。
それは、時と場合によってはとんでもなく苦しい。自分の弱さも、傷も、痛みも―――見たくないところ全部と、向き合うことだからだ。

そして、今回の写真展で見たような命それ自体と向き合うには、結局自分自身と、弱さもひっくるめたすべてと向き合う必要があるのではないか、と思った。

自分に向き合えてないと、つまり自分が何を撮りたいのか自覚していないと、撮影対象に焦点を合わせることができないからだ。
焦点が合わなければ対象はぶれる。
文章の場合も同じだろうと思う。
(現にこのブログの文章は焦点が絞り切れてなくて、なんだかごちゃっとしている。)


自分が何を望み、何をしたいのか、自覚する必要があると感じた。その過程では、否応なく自分の弱さと向き合い、それらを引き受ける覚悟がいると思う。
私は正直自分の望みがわからない。今でさえ、何がしたいのかも、いまいちよくわかっていない。

ただ、引き受ける覚悟というのは、もしかしたら、死なない限り人生は続くのだから、これから先何があろうと生きていく、ということなのかもしれないと思った。


ジンジャーエールと秋の風

朝起きたとき、珍しく寝苦しくなかった。

どうしてだろうと思っていたが、今日はここ最近と比べて妙に涼しい、むしろすこし肌寒いなとどということを、夜の坂道を下りながらぼんやりと考える。先週までは茹だるような暑さだったのに、虫の鳴き声を聞きながらすぐそこまで秋が来ていたことに、はじめて気づいた。

帰るまでの道すがら、駅ビルの食品売り場に寄った。ウィルキンソンジンジャーエールと、好奇心につられてパクチーラーメンなるものを購入。一体どんな味なのだろう。

夕飯を食べるために寄った定食屋で、絲山秋子の『ニート』を読む。5つの短編からなる短編集で、表題作の『ニート』は、ざっくり言うと、困窮している男に女が金を渡す話だ。『2+1』がその後日談。他に『ベル・エポック』『へたれ』『愛なんかいらねー』が収録されている。私はこの作者の作品を読んだことがなかったため、タイトルから勝手に退廃的な雰囲気の文章を想像していた。

結果、裏切られたというほどではないが、予想していたものとは、なんか違った。想像の斜め上を行かれた感じ、といえば近いだろうか。
ニート』は、たった17ページの短編だ。後日談の『2+1』は40ページ。合わせて60ページに満たないこの作品は、なんでか不思議な力強さと静けさに満ちていた。
そこまで特異な出来事が書かれているかと言われたら微妙だ。ありそうだけど、なさそう。
ここに出てくるキミは、ライフラインがいつもぎりぎりで、やばいとこになるまで行動できない。公共料金や電話の未払い金は溜まるし、食べるものも十分ではない。金銭面でも確かに困窮しているが、精神面ではとっくにレッドゾーンを振りきっていて、いまだ回復しているとは言い難い。肉体はどうにか回復していても。

キミは、どうにか生活している。いや、どうにか生きのびている、と言ったほうがいいかもしれない。きっと、日々を生きのびるのに精一杯なのだろう、と感じる。キミは、本当はさみしくて仕方がない。甘えたくて仕方がない。けれどそんなことはできなくて、窮地に陥るのだ。他者に甘えることへの抵抗、罪悪感、それらを捨てることができなくて。そして何より、それらを上回る何もしたくないという強烈な感情のために。

キミは、いつかこの地獄のような無限ループから抜け出すことが出来るだろうか。同じようなどん底を、何度も繰り返して。

そうして行き着く先は、一体どこだというのだろう。
何もかもがどうでもいいキミは、最期の時、一体どんなことを考えるのだろう。

人間のもつ寂しさと孤独を見事なまでに描いていて、それでも、「もうどうしようもない」みたいな悲壮感がない。単純に、すごいなあと思った。


寝る前に飲んだジンジャーエールは、帰宅してから冷蔵庫に入れたせいかかすかにぬるくて、そのぬるさに、夏が終わることを実感した。

最初の一歩

はじめまして、たんぽぽです。

ここは、日常の由無し事が綴られる場です。
私にとっての『日常』の一部を書いていこうと思っています。

『日常』と一口に言っても、人それぞれ生活の営みは異なります。ある人にとっての『日常』は、別の人にとっては時々あることだったりし、あるいはたまにしかないことだったりします。はたまた日常どころか非日常だったりするかもしれません。
人の暮らし方は、さまざまです。

一方、日々変わりばえのないようにみえる暮らしの中でも、少しずつ変化していることもあります。
その変化、日々の揺らぎを丁寧に掬いとっていければと思います。
少しずつでも続けていきたいです。


それでは、最初の一歩。