『ふるさとのねこ』岩合光昭写真展を見に行って
岩合光昭写真展『ふるさとのねこ』を見に行ってきた。
津軽地方の、あるリンゴ農家で生きているねこ達の物語。
春、夏、秋、冬といった四季を通じて、母ネコと、その子ネコ達の暮らしを撮影している。
この写真展は、私がこれまで写真というものに対して持っていたイメージ、考え方に小さくない衝撃を与えた。
いい機会なので、自分と写真との関係性について考えてみようと思う。
○私にとって写真とは?―――『記録』?それとも『芸術』?
写真を撮ることが好きか嫌いかと聞かれたら、おそらく好きだと答える。
自分で撮る場合、一眼レフのような高価なカメラは持っていないため、コンデジやスマホを使う。撮影対象は、夕焼けだったり、植物だったり、食べ物だったり、その時々でさまざまだ。それらは、その時自分が『きれい』『かわいい』『美味しそう』といったことを感じて、残しておきたくて撮影する。後で、見返せるようにと。
植物の場合は、自分の勉強のために記録として撮っていることが多い。
では見返したとき、撮ったときと同じだけの感動、感情の揺らぎを感じられるかといったら、そんなことはないのだ。
思い出せるのはせいぜい、『そういえばあそこ行ったな』とか、『こんなことあったな』ぐらいのものなのだ。自分が撮影した写真の中で、その当時を、今まさに起きていることのように感じられる写真は、おそらくない。
(その写真を見て鮮烈に当時を思い出せるものは、その当時があまりにも強烈に自分自身に焼き付いているからだと思う。)
写真に関する技術や経験がど素人であるということも当然ながらあるが、私は、自分で撮る写真に対して『思い出や経験を記録』できればいい、と考えていた。それ以上の役割を、『芸術』としての側面を写真に対して求めていなかった。
だからかわからないが、私はきれいな風景や食べ物などの写真や写真集を、買って手元に置きたいとはあまり思わない。書店でたまにぱらぱら眺めて、『あーきれいだなー』と思って、それでわりと満足してしまう。
長くなったが、つまるところ私はこれまで写真を見て感動したことはなかった。
写真というものは私にとって、そこそこ身近なものであるが、同時に私にそこまでの影響を与えるものではなかったのだ。
○はじめて感じた「写真」に対する感動
この写真展で展示されていた写真は、そんな私の写真に対するイメージを揺らがした。
大げさかもしれないが、私ははじめて「生きている」写真に出会ったと思った。
写っているねこ達が、今にも動き出しそうなのだ。やわらかそうな毛並みのもふもふした感じ、あるいは、少しごわごわしていてもなめらかな毛並み、ぷにぷにした肉球。今にも動き出しそうな尻尾に後ろ足。
手を伸ばせばそこにいて、触れるかのように、手触りが、肉体の温かさが感じられる。
「動いている」写真だった。「生きている」写真だった。はかなく、やわらかく、しなやかな命がそこにあった。
今まで写真というものは、「止まっている」ものというイメージだった。ファインダーの向こう側に、確かにそこで生きている存在がいることを、はじめて感じることができたように思う。
失礼極まりないことではあるが、私は写真というものを侮っていたのだと気づかされた。
○対象と向き合うために―――自分自身と向き合う
私が今回の写真展で一番感じたことは、『どうしたら、あんな風に命と向き合えるのだろう?』ということだった。
話は逸れるが、私は文章には多かれ少なかれその人自身が現れる(滲み出ると言った方が近いかもしれない)、と思っている。
そこで、自分の言葉で文章を書こうとすれば、否応なしに自分自身と向き合うことになる。
それは、時と場合によってはとんでもなく苦しい。自分の弱さも、傷も、痛みも―――見たくないところ全部と、向き合うことだからだ。
そして、今回の写真展で見たような命それ自体と向き合うには、結局自分自身と、弱さもひっくるめたすべてと向き合う必要があるのではないか、と思った。
自分に向き合えてないと、つまり自分が何を撮りたいのか自覚していないと、撮影対象に焦点を合わせることができないからだ。
焦点が合わなければ対象はぶれる。
文章の場合も同じだろうと思う。
(現にこのブログの文章は焦点が絞り切れてなくて、なんだかごちゃっとしている。)
自分が何を望み、何をしたいのか、自覚する必要があると感じた。その過程では、否応なく自分の弱さと向き合い、それらを引き受ける覚悟がいると思う。
私は正直自分の望みがわからない。今でさえ、何がしたいのかも、いまいちよくわかっていない。
ただ、引き受ける覚悟というのは、もしかしたら、死なない限り人生は続くのだから、これから先何があろうと生きていく、ということなのかもしれないと思った。